苦しみは存在しない。中村元訳(『真理のことば』203)
仮初の身とは、生まれ、やがては老死に向かう生命を指している。それを釈尊は生・老・病・死の四苦と捉え、それが彼に出家を促したと歴史は伝えている。しかし、数年の求道を経て、仮初の身を直視する彼の前に、突如として、朽ちることのない永遠のいのちが開示されることになるのは、「この理をあるがままに知ったならば、ニルヴァーナ(涅槃)という最上の楽しみがある」と続いていることからも分かる。
われわれが生命と呼んでいるものは、生じては消える波のようなものなのだ。波が海から生じ、一時海に支えられ、再び海に消え去るように、われわれの生命もまた永遠なるいのち(それを浄土教は無量寿仏、即ち阿弥陀仏と呼び習わしてきたのだ)に支えられている。さらに、生だけではなく、死もまた永遠なるいのちが存在してはじめて起こり得るのだ。キルケゴールが「死もまた一切のものを包む永遠なる生命の内部における小さな出来事であるに過ぎない」と言った意味もここにある。
そして、この事実は、生命の本質はただ生じては消える波を見ているだけでは明らかになってこないことを示している。私たちはその本質を知るためにも、それらの根源に繋がるものを見届けねばならないのだ。百数十億年をかけて進化を遂げてきた宇宙の塵(屑)に過ぎない生命を内側深くへと辿ることによって、私たちはその本源に繋がる永遠なるいのちそのものを知ることができるのだ。しかし、自らを波と見なし、自分を取り巻くさまざまな波に伍して、自分にエネルギーを注ぎ続ける限り、つまり自力を恃み(たの)、自我を貫き通す限り、あなたは波としての生命しか知らず、いつまでも生死の波に翻弄されることになる。(可)
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