他人がどうして自分の主であろうか。中村元訳(『真理のことば』160)
社会の中で多くの人々に伍し、自分が立ち行くために、まず自己を確立し、自律することが求められてくる。教育もその一助となっていよう。しかし、それだけのことを言うのに仏教(広くは宗教)など必要ない。事実、釈尊は今のあなたが主(それは自我でしかない)であるとは言っていない。むしろ、私たちが自分と呼びならわしている自己が良くも悪くも多くの問題を生み出し、煩いと混乱を来たしているのだ。だから仏教は、そういう自分を<世俗の我>と言い、それに対して<真実の我>もあるが、それを知る人は、実は極めて少ないのだ。それは、この文章の後に、彼が「自己をよく整えたならば、得難き主を得る」と条件を付けていることからも分かる。ありていに言えば、私たちは未だ本当の主(真の自己)を知らないだけではなく、エゴ(自我)に過ぎない自分を私と見なし、時に談合し、また相争っているのだ。
この得難き主を知ってはじめて私たちは自分の主となる。しかし、そうできなければ、人はそうと気付くこともなく、物心両面で他者(組織)に隷属し、不安と孤独、葛藤と虚しさは死ぬまで無くならないであろう。宗教は一見すると、神や仏の信仰のごとく見られるが、真の自己(それを禅は「本来の面目」と言う)を知り、自らの主となることを説いているのだ。そして、それを知るのはあなたを措いて他に誰もいない。
自己を整える方法は宗教によって様々であるが、釈尊が苦行を捨て、菩提樹の下で禅定(三昧)に入り悟りを得たように、それらの総称が瞑想と言われているものである。親鸞が採った方法が念仏(三昧)であったことはいうまでもない。(可)
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