私たちが生活していく中で、慈悲という言葉はたびたび耳にすることがあります。本学でも校訓「真実心」は「慈悲の心」と言い換えられます。その慈悲について、『歎異抄』もとに考えていこうと思います。「慈悲」とは「慈」の心と、「悲」の心に分けられます。「慈」には、「苦しみを抜いてやりたい」という「抜苦」の意味があります。「悲」には、「楽しみを与えてやりたい」という「与楽」の意味があります。「慈悲」とは「抜苦与楽」を意味する言葉なのです。
そして『歎異抄』の第4章に以下のように書かれています。
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々 (『真宗聖典』六二八頁)
ここでいう「聖道の慈悲」の聖道とは、自らの努力によって、煩悩を断ち、悟りを得ようとする仏道のことを表しています。これはいわゆる向上心を原動力として、理想を追求する仏道を表しています。そして、その精神によって他者を救おうとするのが「聖道の慈悲」になります。自力を尽くしていくのが「聖道の慈悲」なので、私たちが実践しないといけないと思っている慈悲に似ています。
それに対して「浄土の慈悲」とは、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏申す身になることによって、苦しみから解放されるということです。阿弥陀仏の本願のすごさを知り、本願を信じて念仏を称えること身になることが必要なのです。
このように、『歎異抄』の第4章では、慈悲について「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の違いを説明する中で、「浄土の慈悲」の大切さを教えています。私たちは、自分自身の力で浄土に生まれることを願っても、あらゆる煩悩によって妨げられます。そのような私たちが持つ慈悲の心は、相手を選らび、一時的で徹底しないものです。だから、阿弥陀の本願を信じるしかないのです。阿弥陀の本願は誰も、漏らすことなく救ってくださるのであり、どんなことにも妨げられることはないのです。阿弥陀の本願を信じ、念仏を称えることだけが慈悲の心だと親鸞は伝えています。(宗)
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