この言葉は『歎異抄』の「後序」の中にある言葉です。『歎異抄』は、宗祖親鸞聖人の門弟であり、聖人の晩年に直接教えを受けられた唯円の作とされているのが定説です。
その著書の中で、晩年の親鸞聖人が常常よく語っておられたお言葉に「阿弥陀如来が五劫という長い時間をかけて思案を尽くして建てられたお誓いをよくよく考えてみると、つくづくそれはこのわたし(親鸞)ただ一人に向けての救いの御心であった。思えば救いようのない多くの罪を背負ったこの罪業深い身を生きるほかないこのわたしを何としても助けようと決意していただいたことは、なんともったいなく、有難いことであろうか」と述懐なされたと記されています。
親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫」「罪悪深重の身」それがわたしという人間の本当の相(すがた)であるとご自身を深くかつ厳しく見つめられました。そして、師である法然上人との決定的な出遇いを通して、このような自分一人のために大きな願いがかけられていることに気付かれて、その仰せのままに一途に信じていかれました。自分一人のためだと言われますと自己中心的で傲慢な考えのように思われますが、決してそうではなく、どこまでも自分自身を厳しく見つめられたことによるものであり、真の相が明らかになるほどに自分一人のためにという思いがつよくなられたのだと思います。そして、その一人への救いという理解は、実は生きとし生けるものすべてに平等にかけられている願いであるという理解につながっていくことになります。
さて、私達はどうでしょうか。親鸞聖人のように厳しく自分自身を見つめることは容易なことではありませんし、罪深い身であると思いたくはありません。しかし、よくよく考えてみますと、私達は他のいのちをいただかずして自分に賜ったいのちをつないでいくことはできません。また、欲望にとらわれて自分を見失ったり、すべての事象を自己中心的にとらえて知らず知らずのうちに他者を傷つけて悲しませていることがあるのではないでしょうか。そして、いのちの事実である生老病死の苦悩を避けることができないで私のつもりや考えではどうすることもできずに迷い続けている、それが私という人間の本当の相(すがた)なのではないでしょうか。将に親鸞聖人と同じ課題を私達もかかえていると言えます。そのような私達に親鸞聖人は、同じように迷い悩む人間なのだから共に励まし合って歩んで行こうと呼びかけてくださっているように思います。
私達は、親鸞聖人が「ひとえに親鸞一人がためなりけり」と述懐なされた御心を憶念しながら、常に本当の自分自身の相(すがた)を見続けること、そして、親鸞聖人と同じ課題を持つ私達であるからこそ、そのような私達にかけられている大きな願い、はたらきに出遇っていくことが最も大切なことなのではないでしょうか。(宗)
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