「不要不急の外出を避けるように・・・」
第5波とよばれている、未だおとろえを見せない新型コロナウイルスの感染拡大に不安な生活を強いられています。ニュースなどで毎日のように聞くこの四文字の言葉は、三密を避け、感染拡大を抑えるための大切な呼びかけではあるが、一方でマンネリ化し、言葉だけが虚しく過ぎ去っていく感は否めないのではないでしょうか。日々の新規感染者数で一喜一憂する私たちは、何が「要」で何が「急」なのかは、今も多くの人が頭を悩ませています。
今月の言葉「その用事が何であったか」は、杉山平一さんの「生」という詩の中で問いとし私たちに語りかけてくれています。
ものを取りに部屋に入って 何を取りに来たのか忘れて 戻ることがある
戻る途中でハタと思い出すことがあるが
その時はすばらしい
身体が先に この世に出てしまったのである
その用事が何であったか
いつの日か思い当たる時のある人は幸福である
思い出せぬまま 僕はすごすごあの世へ戻る
誰もが皆意識してこの世に誕生して来た人はいません。気がついたらこの世に生を受けていたのです。日々の生活の中で、忘れたことを思い出すように、気づいた人はすばらしいです。しかし、また、思い出せずに命を終えていくのも私たちです。
私たちには、「この世に出てきた用事」があります。用事とは、言い換えれば私たちが「何のために生まれてきたのか」という人生の根本的な問題です。
この世界に生まれて、本当に大切なことに出会わなければならないことを蓮如上人は、「宝の山にいりて、手をむなしくしてかえらんにことならんものか」という言葉で表しています。それは、宝の山の中に本当は入っているのに、それに気づかず、何も手にすることなく帰っていってしまうことを、例えられています。杉山さんの詩は、本当は「なぜ自分は生まれてきたのか、何のために生きているのだろうかと」と、根底に問いかけをいただいているといえましょう。生まれてきたものは、老い、病になり、必ず死ぬことを、誰もが知っています。しかし、日頃は不安と恐れを心の底に隠して、見ないように、触れないように、考えないようにして、それを見ずに過ごしてしまっている私がいます。
「なぜ、生まれて、なぜ生きるのか。」人生の用事をいつか思い出す時が来るのでしょうか。
「その用事は何であったか。」は、決して人間の方からは気づくことはできません。仏法を通して、いただいていく世界であり、それは自分自身が「その用事」を生涯を通じての問うていくことになります。(宗教部)
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