今回は初期経典を通して「ちょうどよい」をご紹介します(『ブッダとは誰か』(吹田隆道)152-154頁、『原始仏典III 増支部経典』126-133頁、『仏弟子の告白』137-138頁)。
ソーナという仏弟子がいました。恵まれた家庭に生まれ、琴をたしなむ青年だったようです。出家した彼は熱心に修行に励みます。熱心すぎるあまり、経行(ゆっくりと歩きながら行う瞑想)のやり過ぎで、足の裏の皮が剥がれ瞑想を行う場が血だらけになり、屠殺場のようだったと言われています。しかし、それほどに努力しても悟りをひらくことができず、彼は悩みます。もともと裕福な家庭の出身であった彼は、修行を続けるよりも、在家に戻って財力で功徳を積むほうがいいのではないかと考えはじめました。ソーナの思いに気づいた釈尊は琴を喩えに語りかけます。
琴の弦は、張りすぎても緩すぎても、いい音を出すことはできない。張りすぎることもなく緩すぎることもなく、ちょうどよい状態であれば琴は美しい音色を奏でる。この当たり前のことをソーナと確かめた後に釈尊は次のように語ります。
努力も、行き過ぎれば気持ちの高ぶりをまねき、緩すぎれば倦怠をまねくのです。したがってソーナよ、ちょうどよい努力を保ち、感官のちょうどよいところを知り、そのちょうどよいところで目標を捉えなさい。
「弾琴の喩え」といわれる教えです。では「ちょうどよさ」はどのようにすれば得られるのでしょうか。
後世の注釈書は、ここで言われる「感官」(根)は修行を支える5つの能力である信・精進・念・定・慧を意味し、この5つの均衡が欠かせないことを教えていると説明します。信が強すぎれば慧(内省する智)が弱まり、精進(努力)が過ぎれば定(心の集中)が失われます。ソーナは精進が過ぎることで心の集中が失われてしまっていたということでしょう。
このように信と慧、精進と定が対となって均衡が求められるのに対して、念はすべての面で強力であることが求められます。念とは、昨今流行りのマインドフルネスの原語で、心の動きや身体に対する「注意深さ」や「気づき」を意味します。
ソーナは、釈尊に出会い生きるべき道を見つけた喜びゆえに熱心に修行に取り組みました。目標は間違っていない。しかし、その思いの強さに飲まれて、自分自身の心の動きや身体への注意深さや気づきが疎かになっていました。気づいたら、足の裏は血だらけで心にも疲れが溜まっていた。そして、一度定めた目標をあきらめそうになっていました。
あちこちに様々な問題が山積みで忙しい日々が続きます。それぞれの果たすべき役割はたしかに重要なもので、誰もが精一杯、自分のなすべきことに取り組んでいるのではないでしょうか。しかし弾琴の喩えが教えているように、自分自身への気付きを疎かにすると、大切な目標や役割を見失うことになりかねません。「ちょうどよさ」を確かめるために、自分の心の動きや身体への気づきを大切にし、目標を信じる気持ちと自らを振り返る智慧、そして努力と心の集中を保ちたいものです。(宗)
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