標記の言葉は、宗祖親鸞聖人の主著『教行信証』の「総序」にある言葉です。阿弥陀仏の本願を信じてお念仏を申すことになったのは、親鸞聖人ご自身の力によるものではなく、遥か遠い過去からの因縁があってのめぐり遇いであり、真実の教えに出遇うべく願われ続けてきたという大きな因縁を知り、その因縁の不思議さと感動とともに深い慶びのこころを表白された言葉であると言えます。親鸞聖人はかかる因縁を「宿縁」といただかれました。今こうして真実の教えに出遇うことができたこの時点より以前のすべての仏縁を宿縁と受け止められました。
真実の教えをいただくということは、どれだけ時間を費やして努力しても極めて難しいことです。それがやっと今、ここに出遇うことができたことは思いがけず偶然としか言いようがない出来事であり、人生を根底から変える決定的な出遇いを果たし遂げることができたこの宿縁には深く慶ばれる他なかったのだと思います。この言葉の次には、「遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。」と記されています。
親鸞聖人にとっての決定的な出遇いとは、二十九歳の時のよきひと(師)である法然上人と
の出遇い(=真実の教えとの出遇い)であり、それまでに教えを求めて迷い重ねてきた苦しくて困難であった道程のすべてがこの出遇いに導く尊いご縁であったと受け止められました。この出遇いを通して自らの本当の姿が顕かになり、煩悩具足の凡夫である自分のために常に照らし続け、呼び続けてくださる大きな願いがかけられていることに気付かれました。
私達は、現在の生活を当たり前のこととして感動もなく過ごしているのではないでしょうか。また、支え続けられているご縁の大きなはたらきがあることを忘れ果てているのではないでしょうか。今、あらためて当たり前のことを尊いこととして受け止め直すこと、そして、幾多のかけがえのない出遇いの一つ一つが人生にとってどのような大きな意味を持つのかを自分自身に問い直す必要があると思います。
釈尊からの仏縁のつながりと私の思いを超えて無限の過去からの数限りないご縁のはたらきがあったことを思う時、「遠く宿縁を慶べ」という親鸞聖人のお言葉が迷い続けている私のこころに強く響いてきます。
ただ今、数限りないご縁、無量無数の出遇いによって起こった事象が、自分自身にとって都合の良い縁であっても都合の悪い縁であったとしてもそのありのままをご縁として受け入れて、向き合い、そのすべてが今の自分を成り立たせている宿縁であったと慶ぶことができたならば、仏教の根源的な課題である「生死出ずべき道」が必ず私達の前にきりひらかれてくるのではないでしょうか。(宗教部)
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