(鋸喩経)
初期経典群のひとつ『マッジマ・ニカーヤ』に収められた経典の一節です(片山一良『パーリ仏典 中部 根本五十経篇I』, pp. 330-346)。
この経典は釈尊が弟子たちのいさかいを諫める内容を記録しています。諭しても納得しない弟子に対し、釈尊はたとえ話を始めます。ある女性資産家の屋敷に、賢明で働き者のカーリーという女召使がいました。カーリーはある時、自分の主人は温和で従順で冷静だが、怒ってもそれを表に出さないだけなのか、そもそも怒りという感情を自分の中に起こさない人なのか、どちらなのだろうと疑問を持ち、わざと朝寝坊をしてみます。日中に起きてきたカーリーに対し、女主人は渋面をしてカーリーをののしりました。それを見てカーリーは、この主人は怒りを起こさない人ではなく、自分が彼女の思惑通りに働いているから怒らないだけだと理解し、なおも朝寝坊を続けます。結局、女主人は怒り狂い、棒で彼女を打ちつけてしまいます。この例え話を終えて、釈尊は、この女主人のように自分の都合のいい時だけ怒りを出さないのではなく、どのような時でも怒りや攻撃性を起こしてはいけないと説法を続けていきます。
しかし、棒で打ちつけたのはともかく、仕事を怠ける者に対して怒るのは当然といえば当然で、なんだか女主人が気の毒にも思えます。このたとえ話を通して、何が言われたことになるのでしょうか。
生きるために社会の中にいる必要があり、最終的に老病死に直面する私たちにとって、生きていく中で自分の思い通りにならないことがあるのは当然だと仏教は言います。苦しみとは、周囲の状況が自分に好ましい状態にあるべきだと思いこんで作り上げている「私の世界」と「現実の世界」がぶつかり合い軋む時に生じる痛みと言うことができるでしょう。
こうあるべきだと思っているファンタジーの世界とリアルな世界がかみ合わない時、人は自分や他人を責めるでしょうし、責めるための武器(棒とは限りません。正当性を誇示する言葉だったりもします)を取ることでしょう。しかし、たとえ自分が正当でありその自分を守るためであっても、武器を取ることが更なる恐怖を引き起こすと仏教は言います(『スッタニパータ』第935詩)。怒りや攻撃性は「私の世界」と「現実の世界」がぶつかり合いから生じるものであって、結局、自分を不自由にするということでしょう。そのような時は「私の世界」「私の思い」から離れてみる必要がありそうです。
気持ちがささくれ立ったとき、何かいらいらしたときに、すっと深呼吸をして、その原因になったこと・人に対して、怒りではなく慈しみの気持ちを向けてみる。これも心をコントロールし、自由でいるための一つの術なのかもしれません。(宗)
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