『蓮如上人御一代記聞書』より
皆さんは、「半年先のコンサート楽しみだなあ」とか「来年からしっかり勉強頑張るわ」等と言った経験がありませんか。私自身は昔、よく言ったものでした。けれどもこの年になると「半年先のコンサートも良いけれどそれまで必ず生きていられるのか。」とか「来年から頑張るわと言っても本当に来年も生きていられるのか。」等ということをよく思うようになりました。
では何故このような事を思うようになったかと言いますと、私の寺では毎年新年に修正会という行事を行い、そこで皆様に新年のご挨拶をさせて頂きます。その時親しくご挨拶させて頂いた方が年末には何人かお亡くなりになられているのです。その方々は「半年先」や「来年」がなかったのです。こんな生活を毎年繰り返していますと本当に今生かされていることが不思議でたまらないのです。いつ終わっても不思議ではない命であることを私は知らされていただいたのです。
釈尊が出家されたのは、老人と病人と死人と沙門に出会われたのがきっかけであると伝えれています。そして釈尊自身もまたいつかは病になり、老い、そして死んでいくものであるということを実感されたのです。それまでの釈尊は一国の王子として誕生し何不自由ない生活をしていました。そしてまわりの人々は人間には必ず訪れる病・老・死という事実があることを考えさせないようにしていました。しかし避けて通ることの出来ない事実に気づかれた釈尊は大変な不安を感じられました。そして不安でたまらなかった釈尊の前に現れたのが、汚い衣装に身をつつんだ沙門だったのです。この沙門の姿は老・病・死の問題を乗り越えた姿でした。そこで釈尊は老・病・死の問題を越えるために出家されたのでした。
私たちは今日がどんな一日であっても明日への夢や不安を抱えながら今日という日を過ごしています。しかし今日という日は明日を迎えるための途中ではないのです。
蓮如上人は折りにふれて、「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候。仏法の事は、いそげいそげ」と述べたと伝えられています。
人生にとって本当に急がなければならないことは何でしょうか。それは世間的な豊かさや幸せを求めるのではなく、それは今ここにこうしている自己の根本問題を明らかにすることなのです。このことを明らかにするのが仏法なのです。そのためには一刻の猶予もならないと蓮如上人は教えてくれているのです。
私たちはどれだけ贅沢な生活をしたとしてもただそれだけでは本当の満足が得られないのは、足下を忘れて遠くばかり見ながら人生を生きているからではないでしょうか。
蓮如上人は私たちのこのような生き方に対して「歩いて行く先の向こうばかりみて、自分の足下を見ないでいると、踏み外してしまうだろう」とおっしゃっています。私たちはこれからのことや明日のことではなくて、私が今ただちに目覚めるべき事なのです。もちろん将来のことを考える事は必要ですが、私が今立っているところをしっかり見つめたときに安心して人生を歩んでいけるのではないでしょうか。(宗教部)
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