怠(おこた)りなまけるのは死の境涯である。中村元訳(『真理のことば』21)
社会の、また組織の一員として、人は自らの責任を果たさなければならない。それを人の道と呼んでもいい。しかし、果たすべきはそれだけであろうか。釈尊は人間として生まれた私たちには、もう一つのつとめ励むべき大切なことがあると言う。それを<不死の境地>と表現したが、それを成し遂げてこそ私たちの生にも意味があったといえるものなのだ。宗教(仏教に限らない)とは、この死ぬことのない境地(それを仏教は涅槃(ねはん)、円寂(えんじゃく)、甘露(かんろ)、ニルヴァーナなど、と呼ぶ)を示し、そこに至る道(方法)を説いているのだ。それを仏の道(仏道=大道)と呼ぶならば、仏教の教えに虚心に耳を傾けるものは常に二つの道を見据えながら人生を歩んでいる人と言えるだろう。つまり、誰もが口にする、一度しかない人生を悔いのないように生きるというだけではないのだ。そんなことはあたりまえのことで、言うほどのことでもない。また、それだけのことを言うのに宗教など全く必要ないし、人の道を説くだけで充分なのだ。
しかし、そうでないからこそ釈尊は、後者の道(仏の道)を蔑(ないがし)ろにし、怠りなまけるものは、今生で何を手に入れ、何に成ろうとも、いずれ死とともに失われる儚(はかな)いものに手を染めただけで、ついに<不死の境地>あることを知らず、死から死へと赴く生死の世界(サンサーラ)に空しく往来することになるので、それを<死の境涯>と呼んだのだ。キリスト教ならば「人間は空(から)でこの世に入り、再び空でこの世から出ようとしている」となろうか。(可)
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