真理に目覚めた者を覚者(仏)というが、彼らは一体何を覚ったのであろうか。それは彼ら自身の内側にある<勝れた宝>を知ったのだ。しかし、それは彼らのみが有していたのではなく、われわれもまたそれを携えている。だから釈尊は、自らの体験を踏まえ、あなたの内側にある宝(真理)を知ることがあなたを真に幸福にするであろうから、この真理によって幸いであれ!と注意を喚起しているのだ。
しかし、われわれはそれあることを知らず、あれもこれも(物、人、金銭、名誉、権力・・・)手に入れようと、求めるのは常に外側(外観)ばかりで、一度たりとも内側を見るということがない。もちろん、そうすることが自分の幸福に繋がると思っているのであろうが、死の時、あなたはそれらすべてを残して、ただ独り去り逝く。空でこの世に入ったあなたは再び空でこの世から出ようとしている。この無知を諌(いさ)めてきたのが仏教に限らず宗教なのだ。
従って、仏法を求めるとは、具体的には、われわれ自身の内に隠された<勝れた宝>を知ることだと言えよう。キリスト教はそれを「大いなる富」と呼び、スーフィズムは「隠れた宝」、禅は「自家の宝蔵」と言ったが、親鸞(浄土教)がそれを「真実の利」と呼んだことは「釈迦、世に出興(しゅっこう)して、道教を光闡(こうせん)して、群萌(ぐんもう)(生死に迷うわれわれ自身のこと)を拯(すく)い、恵むに真実の利をもってせんと欲(おぼ)してなり」(『大経』)と主著に引用している通りである。たまたま人間として生まれ、時間、つまり生と死を超えて、本当にわれわれを利するのはこの真理(勝れた宝)のみであることを銘記しておこう。(可)
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