それを除き去れ。中村元訳(『真理のことば』243)
生まれること、そして老死が避けられない根本原因に何があるかを探った釈尊が、行き着いた結論は無明にあった。無明こそ最大の咎であると言われる所以である。逆に言うと、無明を除くことができたら、生・老死という迷いの生存(世間)を離れることになろうというのが、仏教が説く縁起の法(法則)である。
無明とは真理に暗いということであるが、その真理を覚ったものを覚者、すなわち仏(たとえば、釈迦牟尼仏など)と呼ぶのに対して、それを知らず、生々死々を繰り返している私たち人間を「迷道の衆生」という。ところで、学問もまた知識や技術を習得し、真理の探究に努めることであると言われる。しかし、ここでいう真理は仏教が説くそれではない。それ故、新たな発見や学問の進歩にどれだけ寄与したとしても、それが生死の根源にある無明を除くことには繋がらない。というか、もとよりそんなことを問題にしているのでないから当然であるが、では、無明を除くために何が必要なのであろうか。
無明(avidya)の対概念は明(vidya)であって、決して多知多解(多くを知り、多くを理解できること)ではない。無明を除くために必要なのは光明であり、宗教とは、真っ暗な部屋に一条の光が差し込むと、忽ちその全体(存在のリアリティ)が露になるような体験と言えるかもしれない。親鸞は、この無明の闇を照らす光を智慧の光明(無量光・無辺光)と呼び、私たちもまたその光に出遭うならば、生死・善悪を初めとする二元相対の世界(世間)を離れ、終には仏に成るとした。(可)
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