この言葉は、平安時代中頃の僧で、日本浄土教の祖と言われる源信僧都(九四二~一〇一七)の言葉で、その著『往生要集』の「序」にあります。そこには源信僧都が著した念仏往生の指南書ともいうべき『往生要集』撰述の趣旨が述べられています。当時、源信僧都は僧侶の中で「学徳」の第一と評される僧でした(『続本朝往生伝』)。その僧都が、自らのことを「予が如き頑魯の者」(私のような頑なで愚かな者)と表わしたのでしょうか。
僧都が生きた時代は日本が末法の時代に入るという末法元年(永承七年、一〇五二)を前に自然災害、疫病の流行、争いの頻発など、人々の生活は悲惨な状態で、まさに末法の世の到来を実感させる時代でした。「序」には「濁世末代」と述べられています。このような時代であるから人々は、往生極楽の教えや修行を自らの「目足」とし、求めて精進していました。しかし、顕教といい密教といいその教法は一つではなく、いろいろの修行法もあり難しい選択でした。智力に優れ、精進を怠らず実行できる人は自力で往生極楽することも可能であるかもしれないが、「予が如き頑魯の者」には精進に堪え目的を達すること(往生極楽すること)が出来ない。と、自らを含め多くの人々の現実を理解されたのです。そうして源信僧都は、これまで学び修めてきた教法の中から、阿弥陀仏の本願念仏による救済を頼むことを勧められました。『往生要集』はこのようにして撰述され「この故に、念仏の一門に依りて、いささか経論の要文を集む。これを披(ひら)いてこれを修むるに、覚り易く行い易からん。」と述べておられます。源信僧都は本文「正修念仏」のの中に「大悲倦き(ものうき)ことなくして常に我が身を照らしたまう。」と述べられ、阿弥陀仏の大慈悲の光明は、遍く十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てることはない。「頑魯の者」である私もまたかの摂取の光明に照らされてある。と、感激の言葉を述べておられます。
この源信僧都の「頑魯の者」は、自らを見つめ自らに名乗られた法然上人の「愚痴の法然坊」、親鸞聖人の「愚禿親鸞」の名乗りを思い出します。 二〇二二年十二月
※親鸞聖人は源信僧都を、お釈迦さまの説かれた念仏をとなえることによって阿弥陀仏の浄土に往生するという本願念仏の教えを正しく伝えてくださった印度・中国・日本の七人の高僧の六番目・第六祖として尊崇されています。
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