耕作するバラモンとブッダとの対話を記録した経典があります(『ブッダのことば』岩波文庫,pp. 23-27)。自ら田を耕すバラモンはブッダに対して,あなたも耕作をしてそこで得たものを食すべきだと言います。ブッダは,自分も耕作者であると答え,次の詩頌を説きます。
信仰が種子。苦行が雨。知恵(慧)が私の軛(くびき)と鋤(すき)。慚(恥を知ること)が轅(ながえ)。意が結び綱。念が私の鋤先と突き棒だ。・・・精進は私の軛をつけた役牛であり,安穏の境地へと運び,引き返すことなく行く。行って憂い悲しまないところに。
ここでブッダは信仰を種子に例えます。種子が芽を出し実をつけるには,土を耕しその土を潤す雨が必要なように,たゆまず心を耕し続けることがなければ,信じる気持ちも実を結ぶことがないことが示されています。
詩頌では「恥じを知ること(慚)」が轅に例えられます。轅とは,牛を使って耕作する際に牛の首にあてる横木(軛,慧に例えられる)につなぐ棒で,これによって牛をコントロールし鋤をひかすことができます。そのことから注釈書は「慚なくして慧なし」と説明します。
「慚愧に堪えない」などと定着していますが,慚と愧はそれぞれ,自身と教えに照らして自らの過失を恥じ入り,善なるものを尊重すること(慚),他者に照らして自らの過失を恥じ入り,悪行をさけること(愧)を意味します。では,恥じ入ることと心を耕すことはどのように関わるのでしょうか。
聞(学び,知識)を誇り,どちらがより多く,より人を惹きつける法話ができるかを競う二人の出家者をブッダが諫める経典が残されています(片山訳『パーリ仏典 相応部』4巻,pp. 246-249)。二人は,これまで熱心に教えを聞き,多くの知識を身につけてきたのでしょう。そのための努力が彼らに慢心を起こさせ,「安穏の境地」という目的ではなく,知識の量を誇り他者からの称賛を求める気持ちにさせてしまいました。
この経典から,心を耕すには,信や努力だけでは十分でないことがわかります。『スッタニパータ』の例えでいうならば,収穫を得るために土を耕そうと種子や牛を用意しても,轅がなく牛が気ままに動くならば,せっかく植えた種子も潰され,土も荒れるということでしょうか。心を耕していくには,目的を確かめ続けること,そしてその目的から今の自分のあり方を振り返ることが必要です。自分を振り返った時に,目的に照らし未だ不十分な自分に気づき,その目的を示してくれるものを尊重する気持ちが生じる。そのような気持ちが「慚,恥を知る」と言われています。
11月は浄土真宗では報恩講の季節です。光華女子学園では,11月7日に学園報恩講を務めますが,11月21〜28日の東本願寺報恩講でも境内に出展をする予定です。お近くにおいでの際にはぜひ光華のテントにおいでください。教えに照らされて聞法する機会を共にすることができましたら幸いです。(宗)
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