今月の言葉は、当たり前の単語を並べてみました。当然のことながら「命」は、いろいろな条件が重なった上で偶然に生まれ、そして、「命」は必ず死を迎えます。
皆様は「生は偶然 死は必然」と思って毎日をお過ごしでしょうか。勿論、歳を重ねるごとに生と死について真剣に考えるものです。また、重い病になり、自らの命について考えるのも当然です。さらには、命について考えた末、残念ながら自ら命を絶つ人、生きたくても生きられない人もいます。
しかし、皆様にもう一度自分自身を見つめ直していただきたいと思います。人がこの世に生まれることは宝くじが当たる確率よりはるかに低いのです。私達には父と母があります。その父にも父と母があり、母にも父と母があります。このように遡っていくと一代前は2人、十代前は1,024人、二十代前は104万8千576人、三十代前では10億を超すご先祖さんがおられることになります。系図で言えば私達はその末端の方を生きていることになります。
そして、これらのご祖先さんの1人が欠けても私達は存在せず、不可思議な偶然の中に賜った命であり、お預かりした命だということです。残念なことにこの世に生を受けた以上、私達は必ず死んでいきます。頭では「必然」と理解しながらも「必ず明日がある(当たり前)」と思って日々生活しているが故に「まさか自分が」と考え、自ずと「生は必然 死は偶然」だと錯覚してしまうことになるのではないでしょうか。
宗祖親鸞聖人は、私達人間が持っている煩悩は脱却できない、煩悩のこころは毒蛇や蠍のように恐ろしい、たとえ善行を修めても、そこには煩悩の毒が混じっているので、それは虚仮の行といって真実の行とはいえない、と煩悩の深さを自覚されました。しかし、聖人はこの自覚から煩悩を断ずる自力の行を棄てて、本願他力の道に進まれました。そんな心境を聖人は「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなはち穢身すてはてて 法性常楽 証せしむ」(高僧和讃)と残されています。
親鸞聖人はつねに阿弥陀仏の本願力の素晴らしさを随所に讃嘆されていますが、「煩悩はやめることはできぬけれども、煩悩だと知ることはできる」という言葉も、本願力によって煩悩具足と信知せしめられて、その信知せしめられた私が、また、この本願力によって救われることを意味しているのではないでしょうか。その意味でも、仏法に親しんで意義ある人生を歩み、死を忘れずに日々精一杯生きていくことが大事なのではないでしょうか。(宗)
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