期経典の一つ『ダンマパダ』の第380偈の抜粋です(中村元『真理のことば・感興のことば』63頁)。この中の「主」と訳されていることばを、この経典の注釈書は「拠り所」と理解するようにと解説します。「私が私の拠り所」というのは一体何を意味しているのでしょうか。
『ダンマパダ』第1偈では、ものごとは「心」によって作られていると語っています。この「ものごと」を、注釈書は、我々がものごとを認知する一連の作用を意味することばを使って説明します。つまり、心のありようによって認識作用が変化し、それにしたがって認知される世界のありようも変化していることが指摘されています。
この身体で経験している世界を私はありのままに理解しているつもりになっているけれど、実は心のありようによって歪められた形でしか理解していない。しかもこの心は「欲するままにおもむく」ふわふわしたものであって、「悪しきことを楽しむ」ものです(35, 116偈)。
なぜ心はものごとを歪め、悪事を楽しむのか。それは、私たちの心が、欲望と慢心から生まれ、その場その場の心地良さのみを追求するものだからだと説かれます。そして、このような心の傾向は、心の奥深くに遺伝子のように組み込まれています(294,153-154偈)。
私自身が意識しないような心の奥底にある欲望や慢心が私を突き動かしているなら、私には自由はなく、同時にその行為に何の責任もないように思えます。しかし、欲望や慢心を宿す心が快楽を求め、快楽の喜びを自分のものとするならば、それを失う恐れが生じ、ほかならぬ私自身が苦しむことになります。そうであるのに、私たちはそのことに気づかず、欲望に駆られ「まるでわなにかかったウサギのようにあちこちをはいずり回り」、欲望にとらわれて「長きに渡って繰り返し苦しみを味わう」ことになります(214 ,42偈)。
私にはこの身体以外に居場所はありませんし、誰も私の行いの結果を代わりに受け取ってはくれません。すべてをこの身体で受けとめていくしかない。このような因果応報の考え方が「自己が自分の拠り所である」という一節の背後にあります。そして、行いの結果がわたしにとって苦しみとならないよう、ふわふわした心を落ち着け、避けることのできない現実から目をそらそうとする自分自身を内省していくことが必要だとされます(40偈)。そのことが「自分をととのえよ」という一節で語られています。(宗教部)
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