『スッタニパータ−釈尊のことば−』より
釈尊悟りの瞬間を伝える物語は、釈尊と魔(ナムチ、マーラ)との対決として描かれています。悟りへの最後の瞑想に励む釈尊の前に、成道を阻むべく魔が現れます。そして、長きに渡る修行の中で痩せてしまった釈尊に、いたわりのことばを掛けてきます。
あなたは痩せていて顔色も悪い。あなたに死が近づいている。…君よ、生きなさい。生きた方がいい。生きてこそ、幸福をもたらす功徳を積むことができるのだ。
仏典に登場する「魔」は、わたしたちの心の奥底に潜む欲望の根源の喩えです。この一節に見られるように、魔の攻撃、つまり欲望の表れは、食欲や色欲、金銭欲などだけではありません。いたわりや理屈をもって邪魔をしてきます。その魔に対して、釈尊は次のように答えます。
私には確信があり、さらに勇気があり知恵がある。
今まさに悟りという目的を達しようとしている自分には、悟りへの確信と、悟りを開くだけの知恵と、そして勇気がある。その自分にとって功徳など何の意味もないと、魔を退けて釈尊は成道を果たしました。では、ここで言われた、目的を達するのに必要な「勇気」とはどのようなものでしょうか。
先日閉幕したオリンピック期間中、アスリートたちが「イチローが嫌いだ」というCMが話題になりました。賛否両論あったCMのようですが、彼らが「イチローが嫌いだ」という理由は、「限界という言葉が言い訳みたいに聞こえるから」「自分に嘘がつけなくなるから」「努力すら楽しまなきゃいけない気がするから」などでした。これらの理由から、彼らがイチロー選手から受け取っているメッセージは、自分の目標に対して言い訳をせずウソをつかず向き合う姿勢であり、目標に向かっていく喜びだと言えます。しかしそれは、「嫌い」と表現できるほどに自分自身に対する厳しい姿勢でもあるようです。
目標に向かっていくとき、しばしば壁にぶち当たります。そのときは、自分がぶち当たっている壁は何か、そもそも自分は何を求めてどこに向かおうとしているのかということを明らかにしなければなりません。魔の誘惑を退けつつそれらを正しく明らかにするには、冷静に厳しく自分自身を見つめる視線が必要であり、それには確かに勇気が必要です。しかし、そうしてこそ、目標に向かう喜びも得られるのでしょう。
夏休みが終わり、新しい学期を迎えます。学びの場で、自分の取り組むべきことに勇気を持って努め励みたいものです。なお、今回取り上げた降魔成道の物語は、『スッタニパータ−釈尊のことば−』(荒牧典俊・本庄良文・榎本文雄、講談社学術文庫、pp. 109-112)などをご覧ください。(宗教部)
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