この世とかの世をともに捨てる。中村元訳(『スッタニパータ』7)
心には妄(みだ)りに湧き起こる妄心(もうしん)(想念)とそれを焼き尽くし、心の内がよく整えられた真心がある。今、われわれは前者を生きているのだが、妄心といってもわれわれが普通に心と呼んでいるものであり、よくも悪くも日夜、思い煩っている心のことだ。そして、「生死はただ心より起こる」(『華厳経』)という命題が正しいとしたら、心ゆえにわれわれはこの世に生まれてきたことになるが、それだけではなく、心の内がよく整えられた者は、この世とかの世をともに捨てるというのだから、心ゆえにかの世(親鸞が「後世」と呼んだ死後の世界のこと)もまた存在することになる。言い換えれば、心ゆえに、われわれはそうという自覚もないまま、この世とかの世を往来し、徒(いたずら)に生々死々を繰り返しているのだ。
一方、この世とかの世をともに捨てた(離れた)ところがわれわれの帰るべき真実の世界なのであるが(浄土の思想家たちが「法性(ほっしょう)の都」と呼んだもの)、もちろんそこは、死ねば誰もが行き着くかの世ではない。もしそうなら、何の問題もなかったであろうし、わざわざ釈尊が、心の内がよく整えられた者と条件など付けはしなかったであろう。事実、心をよく整えて(これが瞑想の意味である)、この世とかの世をともに捨てることは容易でないがゆえに、われわれは無始劫来(むしこうらい)、此処(ここ)に死し、彼処(かしこ)に生まれ、生死際なき輪廻の世界を独り巡っているのだ。
宗教はかの世に神の国や仏国土(浄土)を想定し、死者のみならず、残された者たちの気休めに人類が捏造(ねつぞう)した方便ではない。むしろ、いかなる背後世界に逃げ込むのではなく、この世とかの世をともに離れた真実の世界に復帰することを説いているのだ。(可)
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