親鸞聖人の言葉に「同朋・同行」があります。同朋とは阿弥陀如来の本願を信じて浄土往生を願う人々のことであり、同行とはその本願をともに聴き、その教えを生活の拠りどころとして生きるということです。この「同朋・同行」とは、真宗の教えに帰依し、その教えを拠り所としている人々のことを指しているのではなく、生きとし生けるもの全ては阿弥陀如来のはたらき(他力)によってひとしく平等に救われる身であり、これこそが自然のはからいである。このはからいに目覚めていきましょうという呼びかけではないでしょうか。今月はこの「同朋・同行」について考えたいと思います。
有名な『歎異抄』の第6条に、「親鸞は弟子一人ももたず」という言葉があります。これは「門徒を自分の弟子と思えばいいか、それとも如来・聖人のお弟子と申すべきか」という質問に対して答えられた一文で、親鸞聖人の「全ての人々は阿弥陀如来のはたらき(他力)によって平等に救われる身を歩んでいるのであり、そこに師弟という関係は存在しません。自分が皆さんを救うことができるのであれば師ということになるでしょうが、皆さんが救われるのは阿弥陀如来のはたらきによって自ずと定まっているものであり、私の力ではありません。私たちは、そのはたらきに目覚め生きている同朋です」という思いが込められています。
また、親鸞聖人の御消息の第5通に、「としごろ念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにても候わめとこそおぼえ候え」という一文があります。現代語に訳しますと「数年来、弥陀の浄土に生まれようと念仏の生活をしてきた人は、自分がもともと仏とも法とも考えていなかった昔のことを思い返して、友達や同じ念仏の法につらなる朋友ともまごころをもって互いに親しむようになること、これこそが本当に仏さまの願いに生きようとする者の生き方ではないでしょうか」ということになると思います。ここには、「友達や仏教の教えである念仏の法につらなる朋友同士であっても、人と人がつながると、そのつながり・関係が苦しくなりストレスを抱えることもあるでしょう。その時は、自分がもともと仏とも法とも考えていなかった昔のこと、即ち、私たちは同朋であると気づいていなかった昔を振り返り、皆がこの厳しい世の中を互いに助け合い、励まし支え合いながら他力を光として生きていきましょう」という親鸞聖人の励ましを感じます。
近年、組織や団体内でのさまざまなトラブルが起こり、社会問題となっています。また、会社や地域、さらには家庭内での人間関係に疲れ、ストレスを抱える人々も増えています。こうした時代にこそ、「一人ひとりは「とも同朋」であるということに目覚め、相互に敬いながら生きていきましょう」という親鸞聖人のお示しくださった考えを大切にする必要があるのではないでしょうか。(宗教部)
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