第二のものは存在しない。中村元訳(『スッタニパータ』884)
仏教が世間と出世間に分けたように、真理にも俗諦(ぞくたい)と真諦(しんたい)の二つがある。俗諦とは世間(この世)におけるくさぐさの真理をいうが、それには社会通念上、真・善・美とされるものから学問が追求している真理も含まれる。一方、真諦とは仏教が説こうとしている究極の真理(出世間の法)であり、それを第一義諦ともいうが、その真理は一つであって、第二のものは存在しないが故に、それを知る時、自ずと人の世における戯言(ざれごと)(争論)は終わりを告げる。
精神(心)と物質(物)、あるいは私(主)と世界(客)はそれぞれ独立した存在であるとするデカルト的二元論から、今日、見るが如く、科学(学問)は急速な進歩を遂げ、そこで問われる真理は、その客観性ゆえに、同じ条件の下では追体験が可能であるというものだ。ところが、この真理の客観性が揺らぎ始める事件が、意外にも、前世紀初頭に活躍した科学者たちの中から起こった。簡単に言えば、科学の探求には観察者である人間の意識(心)も含まれ、観察者である人間と無縁な客観的な世界(物)は存在しないというものである。明らかにこれは、真理の相対性(縁起)を示すものであり、主客(心物)の二元論によって得られる結論はすべて絶対(究極の真理)ではあり得ないということで、仏教がいう俗諦に相当する。
しかし、この心と物が分ち難く結びついているという考えは、早くから仏教(無著(むじゃく)など)の中にあり、また、物(色)を見るとは心を見ることであるから(見色即見心)、心が本来無、あるいは空(無心)であることを体験的に知れば、心(私)だけではなく物(世界)も消えてそこにないだろう。ところが、この見るものと見られるもの(主客)が二つながら無となるところに一なる真理(真諦)を見ていたのが宗教的覚者たちであったのだ。(可)
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