今月のことば「アンチェイン(Unchain)」は、直訳すると「鎖を解く、解放する」という意味の動詞です。また、「Unchained」という形容詞にすると「鎖につながれていない、自由の身になった」という意味になります。あまり使わない単語・表現だと思いますが、私は意味のない何かに縛られることによって悩んだり、不安になったりとポジティブになれない自分を戒めるため「縛られない」という意味でこの言葉を使っています。
親鸞聖人に師事した唯円が、聖人亡き後の異説を歎き、聖人の教えや信心を伝えようと聖人のことばを書き残したと言われている『歎異抄』の第七条に、「念仏者は、無碍(むげ)の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神(てんじん)地祇(じぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界外道も障碍(しょうげ)することなし。罪悪も業報(ごうほう)を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々(現代語訳:念仏は、無碍の一道である。その理由は、信心の生活者に対しては、天の神・地の神も敬ってひれ伏し、また、人間の生活を脅かすものや、人間の理性を誘惑するものなどにも引きずられることはないからである。自分のおかしてきた罪の結果も、自分を脅迫するものとして感ずることはない。また、人間のつくるどのような善も、如来の大悲のはたらきには及ぶものではない。だから、念仏は無碍の一道なのである(親鸞仏教センター訳))」とあります。
私たちは、何か分らないこと、不思議なことがあるとそれに意味(忌み)づけをし、納得しようとします。例えば、方角や日の良し悪しであったり、悪いことが起これば祟りといったり、土地や現象に神を宿したり、また気味の悪いモノを幽霊がいるといって恐れを抱いたりします。また、自らが犯してしまった罪悪を引きずり続け、また、善い行いをするべきだと自分が「善いと思うこと」に捉われ悩んでしまいます。
仏教とはそもそも、「何かができるようになる」という教えではありません。このような真の自分の姿に気づき、どのような心がけで生きていかれますかという問いかけだと思っています。親鸞聖人はそれを無碍の一道、「何かにしばられるものではない生き方」とおっしゃっているのではないでしょうか。何かよく分からない、理解できないものに対してさまざまな意味づけをし、それに捉われてしまう私たち、悪い行いを引きずり悩み続ける私たち、善いと思う行いをし、それをしない人を見て苦しむ私たち、そんな私たちに対し、「自分で意味づけしたにすぎないことですよ」、「ちゃんと慙愧の念を持ったのであればそれでいいのですよ」、「他者と比較する必要はないのですよ」、そして「このような私たちの真の姿に気づき、そのような全てから解放された生き方をすることが念仏者の生き方なのですよ」とおっしゃっているのではないでしょうか。
いろいろな不安や悩みを抱える私たちに対し、「それでいいのですよ」とそこからアンチェインする心がけを示してくれる、それが親鸞聖人の説かれたことではないでしょうか。
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